母なる凪と父なる時化
1
僕はいらいらしていた。
レイジは停めてある軽くトラックの荷台に足を掛け、勢いをつけて三メートルはある堤防の上に一気によじ登った。
はやくしろよ。
鼓膜を突くほどのその声に、僕は慌てて麻の袋に入れた仕事道具を堤防の上のレイジ目がけて放り投げる。そして辺りを素早く見回した後、僕もレイジを同じように堤防の上によじ登った。急に、何処までも凪が続く穏やかな青海原(あおうなばら)が眼前(がんぜん)に広がる。魚を取るために仕掛けた網の位置を印す赤いブイが所々浮かんでいるのが見える以外は、遥か沖をゆっくりと航行する貨物(かもつ)船等の大型船が、外海を目指して移動しているだけだった。しかし長閑な景色とは裏腹に僕の胸中(きょうちゅう)は昂(たばぶ)っていた。緊張が筋肉と心を固くさせている。二人は着いたTシャツを荒々しく脱ぐと、麻袋の中から水中眼鏡を取り出し装着した。僕は自分の手が震えていることにその時はじめて気がついた。
堤防の上はどうにか人が歩ける程の幅しかなく、反対側は海だった。海側の堤防にはテトラポッドがうずたかく積み上げられ、時化から堤防を守っている。二人はもう一度辺りを見回した後、そのテトラポッドを伝えって器用(きよう)に海面へ向かって降りはじめた。一番下のテトラポッドまでたどり着くと、麻袋とTシャツをその隙間に隠し、足先から海へ飛び込んだ。二つの身体は突き刺さるように海の中へ分け入る。真夏の海は意外に冷たかった。
後悔してるんじゃないだろうな。--
レイジが海面に顔を出すなるそう言った。僕の視界には唇を尖らせたレイジの顔と堤防の先に聳える函館ドックが見えている。
馬鹿言うな。--
僕はドックの方を見たまま、そう答えた。レイジは白い歯を見せて、臆病風が吹いたのかと思ったぜ、と呟く。そしてふっと笑い出すといきなり手の甲で海面を掬った。水しぶきが僕を顔に掛かる。
いいか、ここまできたらもうやるしかないんだぞ、分かってんだろうな。--
僕はレイジの手首を勢いよく掴むと、分かってる、と低い声で吐き捨てた。
よし、ならいい。俺が作業をする。お前はここで見張るんだ。誰かが来たら大声で合図を送れ、いいな。--
僕の手を振り払い海へ潜(くぐる)ろうとするレイジに向かって、僕は少し慌てて声を張り上げた。
誰かって。--
レイジは沖の方へ視線を向けている。青函連絡船がゆっくりと外海を目指している。
例えば船だよ。密漁監視船さ。道庁の旗を掲(かか)げたでかいやつだ。あの堤防の先を注意してみとくんだ。突然くるらしいからな。--
そう言い切るとレイジは、シュノーケルを口にくわえ、静かに海に潜っていった。
レイジの引き締まった身体が海の中へ入っていくと急に心細くなった。きらきらと輝(かがや)く海面が僕の位置からはっきりと見えている。テトラポッドに足を掛け、情けなく首から上を海面に出していると、反射する太陽光線がまぶしかった。僕はきょろきょろと辺りを見回しながら、長閑な海の先から突然やってくるというその未知の脅威に目を光らせた。
太陽は真上(まうえ)にあった。じりじりと降り注ぐ(そそぐ)日のせいで頭は熱を帯び(帯びる)ている。五十メートル程先の海面にレイジが息継(つ)ぎのため数十秒間隔で浮き上がってきていた。そのたびに飛沫が上がり屈折(くっせつ)した光が瞬間分かれて見えた。
僕の父親は保険会社に勤めるごく普通のサラリーマンで、彼が函館の営業所の所長に転属(てんぞく)されたのを機に、僕たち一家は住み慣れた東京から函館に引っ越すことになった。僕はいわゆる登校拒否という状態にあり、高校一年の夏、同級生たちにリンチにあってからはずっと学校というものには通ってはいかなかった。両親は、新聞にも載った「集団リンチ事件」こそが僕の登校拒否の一番の原因だと信じ込んでいたようだが、本当はただ、あの学校という集団生活の場に馴染めなかっただけだった。
確かに僕には協調性はなかった。いちいち誰かの顔色を窺(うかが)わなくては生きていけない社会なんて我慢できなかった。何かに自分を合わせるということが苦痛でしょうがなかったのだ。愛想笑いなど絶対出来なかったし、相手を尊重することも苦手だった。何よりだめだったのが、友達を作る、という行為だった。友達は自然に出来るものと信じていた僕の目には、皆がいつも無理して仲間を作ろうとしているように見えた。偽物の仲間が学校には溢れているように思えた。自分を偽って(いつわる)まで友達をほしいとは思わなかった。だから僕はクラスメートたちの誘いという誘いを悉く(ことごとく)断っていたのだ。それじゃただのわがままじゃない、と母によく注意をされたが、直せなかった。協調して得た友情など、僕には必要のないものだったからだ。
だから奴らは僕を攻撃の的にしたのだろう。彼らの幼稚(ようち)な集団主義が、その団結を深めるために、孤立(こりつ)していた僕を利用したに過ぎなかった。しかしそのリンチ事件は逆に、僕にとっては態のいい登校拒否の口実となってしまう。僕は堂々と学校を拒み(こばむ)、自宅に籠(ご)もるよちになり、結局、大学検定試験を受ける道を選ぶのだから。それからの僕は暫くの間、一人で学習をするという平穏(へいおん)な日々を送ることになった。
ところが父に転勤の話が持ち上がった。それも函館へ。長年都市内に住み続けた僕ら家族にとって、いきなり函館行きというのは大変な事件だった。時々テレビに映し出される北海道の印象はどれも雪に閉ざされた極寒(ごっかん)のイメージでしかなく、函館についての僕の知識と言えば、夜景が美しくロシア系の教会や五稜郭(ごりょうかく)のある歴史的な観光地、といった程度(ていど)だった。しかし両親は突然の転勤に困惑(こんわく)こそしていたものの、一方で内心函館行きを喜んでいる節もあった。環境の変化によって、僕が変わるかもしれないと言う淡い期待を持ったからだ。
引っ越して少し落ち着いたら、学校に戻ってみてはどうだ。自宅学習をする僕を叱るわけでもなくじっと見守っていた父が、あるとき僕にそう持ち掛けれきた。学校に通わなくなって一年近くが経とうとしていたころのことだ。
僕に向かって真っ直ぐに話しかける父の後ろで、晩御飯の用意をする母が聞き耳を立てているのが僕にはよく分かった。父が会社に行っている間、家から出ずに自分の部屋で一日をひっそりと過ごしていた僕にとって、母が唯一の話し相手だった。話し相手になってくれるだけではなく、母は僕の勉強にもよく付き合ってくれた。僕と向かい合うために彼女も本気で勉強をしているのが分かった。彼女はよく、一緒に受験しようね、と笑いながら言っていたが、それは彼女流の優しさだった。しかし僕に、一番学校に戻ってほしいと願っていたのは母であったはずだ。父の肩越しに配膳をする彼女の手が止まったまま動かなくなったのを僕はしっかり見ていた。目を伏せて何かを待っている母の横顔を僕は盗み(ぬすむ)見て、心が動いた。
新しい学校に初めて登校した日、僕はクラスの連中のざわめきに迎えられた。担任に連れられて教壇に上がると、生徒たちの間からひそひそと囁く(ささやく)声が聞こえてきた。僕の方を指差す者までいたので、一瞬前の学校でのことが頭を過(よぎ)ったが、すぐに理由を教えてくれたからだ。
二組にいるレイジに君がとてもよく似てるんだ。目や口許(くちもと)はそっくりだ。それだけじゃない。雰囲気や仕種(しぐさ)も似てるところがある。--
僕はそのお節介(せっかい)やきに肩をすぼめてみせた。
俺はそいつに似てるんじゃなくて、そいつが俺に似てるんだろ。--
いや、その勇猛(ゆうもう)なところには敬服するがね、気をつけた方がいい。レイジの前ではそんな口は聞かない方がいい。奴はちょっと問題ありだからね。--
彼はそう言うと意味ありげな表情をして去っていった。
僕は初めてレイジとすれ違ったのは、新しい学校に通うようになって二週間ほどが過ぎた頃だった。それまで僕が彼と出くわさなかったのには理由があった。彼は停学になっていたのだ。あのお節介やきが言った「ちょっと問題あり」のせいで。
僕は三時限目の体育の途中で気分が悪くなって、実際には半分仮病(けびょう)だったのだが、体育教師に申し出て保健室へ向かう途中だった。静まり返った(しずまりかえる)階段でレイジと対面した。二週間も前から似てる男がいることを知らされていた僕でさえ、あれほど驚いたのだから何も知らされていなかったレイジはさぞびっくりしたに違いない。階段の途中で立ち止ったまま暫くじっと向かい合い、幽霊にでも出くわしたかのとうな顔でお互いを観察しあった。音楽教室から繰り返されるピアノのおぼつかないリフが開け放たれた窓から流れ込んで来ていた。
次の日、僕は午後の授業を抜け出して飛び込んだ青柳町(あおやぎちょう)のジャズ喫茶「エストラゴン」で、またレイジと出くわすことになる。通学路の途中にあったその店は、函館に来てからずっと気になっていた店だった。シダが絡む(からむ)古い煉瓦(れんが)作りの建物はかつてロシア人の家族が住んでいたものらしく、少しだけ開いている窓だるいトランペットの音が絶えず通りへ洩れていた。
ドアを押し開けると、カウンターの中いるマスターの視線が凝固(ぎょうこ)した。函館に越して来てから僕はよくその目に出会った。高校の教師たちも生徒たちも、僕を初めて見る者たちは皆、僕の顔を出来の悪いコピー製品でも見るかような目で見つめるのである。僕はその度に良く似たもう一人の存在に憤慨(ふんがい)した。
マスターは皿を洗う手を止めて、僕を上から下まで舐(な)めるように見回した後カウンターの奥へ視線をやった。薄暗がりの奥まった一角に、レイジはゆっくりと僕の方へ振り返ると、片方の眉毛をつり上げ、そしてにやりと笑った。
やあ、誰かと思ったら今話題の転校生君じゃないか。さあここへ座れよ。ーー
レイジはそう言うと顎をしゃくって席を指し示した。生意気(なまいき)な態度だったが、高圧的な感じは受けなかった。僕はあえて逆らうつもりはなかったが、黙って従うのも癪(しゃく)だったので、レイジをぎゅっと睨み付けた。しかし彼は鼻で笑って挑発(ちょうはつ)に乗ることもなく視線を逸(そ)らした。その瞬間、僕の中で張り詰めていたものが緩んだ。レイジは吸いかけの煙草を口にくわえると、にやにやしながら煙をゆっくりと吐き出した。僕の目にはそれが薄い紫色に見えた。
いい迷惑をしてる。--
僕は座るなり、レイジに言った。何だか自己紹介をするような間柄ではないような気がしたからだ。マスターが僕らの正面で目だけ動かして目比べているのが気になった。
迷惑しているのは俺の方だ。久しぶりに学校に出てみれば、クラス中があんたのことで持ちきりだった。俺の親父のことをまた誰かがなにかいいやしないかと、俺も気をもんだよ。--
親父?--
俺の親父は今七十歳でな。もう古稀だよ。そんな親をもつとな、いろいろ言われるんだ。ちいちゃかった頃は随分やなことをいわれたものさ。今度も、あんたのことを隠し子だなんていうやつが出てこないかと思ってさ。--
僕が返答に困っていると、レイジは再びにやりと笑って続ける。
そういう意味じゃ俺もあんたに迷惑をかけているかな。--
僕たちはその日、友たちになった。誰かと仲良くするということは僕のとって苦痛だったはずなのに。似ていると言うことがすんなりと打ち解けあうきっかけを作ったのは間違いないが、僕はそれ以上に彼の中に自分にはない得体()のしれない何かを感じとっていたのも確かだった。あのお節介やきが言った「ちょっと問題あり」という言葉の意味を何となく僕は皮膚で感じ取っていて、それがこの退屈(たいくつ)な街で生きていくためのカンフル剤になるかもしれないと言う、新たな予感もあった。
そしてその日僕はレイジに密漁を一緒にやらないかと持ちかけられた。
ウニを詰め込んだ網袋を抱えて、レイジが引き返してきたのは海に潜って一時間ほどもしてからだったか。
大漁だ。--
テトラポッドにたどり着くとレイジは満面に笑みを浮かべてそう叫んだ。ギラギラと降りそそぐ真夏の光線を受けて彼の剥き出した歯が、凪面に鮮やかな白を染めた。その笑顔は、僕には真似することの出来ない眩しさに満ちていた。